ファッションと自己紹介のことを考え記録します。

自問自答ファッションを学び始める(2021/6/7)

※2021/6/7に書いていた記事です。

別のブログから引っ越してきました。

 

あきやあさみさんの自問自答ファッション通信https://www.jimon-jitou.com/)を読んでいて受け取ったことのメモというか、日記のような、雑感のようなものを書きました。そんなものなのに1万字超え……

たぶんですが、私はどうもこれくらいの長さにならないと思考にまとまりをつけられないようです。簡潔な人間になりたいです。

 

今まで考えてこなかったこと

今イメコンのモニターに応募して、事前アンケートを書いている。ただ、ときどき答えにくい質問がある。そういうことじゃないんだよなあ……と思う。

 

……そういうことじゃないんだよなあ???

 

自分に驚いて、あきれた。

信頼してお願いすると決めたプロのアナリストさんを相手に、何が「そういうことじゃない」だ、ずれているのは私のほうなのに、何を開き直っているんだ。まっすぐ答えられない質問があったなら、そこに、私が逃げてきているものがあるに決まっている。

 

「どういう人になりたいか」

 

私は今、この問いに答えられない、という事実から逃げたのだ。

 

 

目から鱗がおちた私はあらためて、かねてより愛読していたスタイリストあきやあさみさんのnoteを片端から読んだ。

こちらの記事で、「めんどくさい」という言葉が使われていたとおりだった(「めんどくさい」という言葉を、あきやさんはあえて使ってらっしゃることを、念のためことわっておく)。

そうだ、私はめんどくさがっていた。

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私は自分がおしゃれではないまでも、おしゃれな人のことはすきで見ていたつもりだった。けれども決定的に、何もしなかった。

何となく「よい」と思うものはあっても、それに向き合ってこなかったし、考えてこなかった。漠然と希望はあるけれど、それを把握するのも、現実に落とし込むのもやらなかった。なぜ?面倒だったからだ!

 

こちらの記事にもあったとおり、「ファッションのことを考えている時間」が圧倒的に少なかった。

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自己愛だけはいっちょまえ、でも自分のことを自分の責任として、考えていなかった。

「自分の体に合う服」のことはわりと知っている。幸いそれがたぶん、社会的なキャラクターと乖離していないので、そこまで悩まずにつきあっていける。

でも自分がどういう人間で、どういう人になりたいのか。自分はどういう人なのか。それは知らなかった。

 

ならば今すべきことは、考えること以外にない。

考えるには材料が必要で、その材料が具体的であればあるほど考えやすい。さらにあきやさんのnoteをあれこれ読んで学ぶことにした。

 

 

具体的な目標:くつとかばん

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まず具体的な目標としてはこれ。靴やバッグから組み立てる、という意識が私には欠落していた。

服ならば試着ができるから、念入りに吟味できる。私の体はそれなりに主張が強くて、7号から11号まで色々着るから、逆に言えば吟味しないと買えない。

でもバッグとなると、基準がとたんにふわふわしだす。だいたいどれも妥協して買ったものばかりだ。

 

というよりも、突き詰めて選ぶ術を知らないから妥協して買う。妥協して買うから気に入らなくて、数ばかり増えてしまう。そして数だけはあるから、「もうたくさんあるんだから新しく買うなら安いので…」と思ってしまう。

お経にでも書いてありそうな負の因果のみごとさに感心する。私のバッグ迷走の筋道すらお見通しとはすごいな仏の道は……

 

 

靴も同じだ。痛くならない靴という時点で限られるから、多少気に入らなくても入る、歩けるというところで妥協してしまう。

また靴は、トレンドの動きがはやい気がする。服よりも身に付け方の工夫の幅が狭いように思うから、古い靴や薄汚れた靴を履いていると露骨に「足だけ時が止まってるの?」感が出てしまう。ゆえに回転の速度を意識して、価格も重視してしまう。そして安っぽくてそこそこ今っぽい靴をとりあえず買う。

つまり、まさにこのチェックポイントの「靴がもさもさしてる」に当てはまっていた。

 

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それだよ……!!とうめいた。安い適当な靴を買うということは、もさもさしてるだけではなくて、全体のグレード・テイストが合わない問題にも繋がってくる。

 

中高生の頃読んでいた雑誌『JILLE』(懐かしい~~~終刊泣いた、)のストリートスナップにモデルさんやスタイリストさんがコメントしていたページで、「みんな家を出る前に鏡見ないのかな?靴だけ「なんでそれ?」ってなる子が多くてもったいない」的なコメントがあって、痛烈に印象に残っていたのを思い出した。

 

そのページはスタイリストが素人めった切りにします!というような趣旨のページではなくて、ここにアイディアがある、この工夫すごい、これ面白い、というようなキラキラした発見の喜びが飛び交うページだった。

それだけに、この忌憚のないコメントが心に残っていた。どうしてもこれだけは言いたかったのだろう、悔しかったのだろうと思った。

 

そんな切実な言葉にはやくから触れていたというのに、なぜ私は安い靴を買いすぎていたのか。きっとバッグと同じで、よい靴というものを体験したことがなかったからだろうと思う。

とりあえず須賀敦子ユルスナールの靴』を読み直さなくてはならない。

 

 

足りなかった学び

それから私に欠落していたのは、学び。それこそ昔は雑誌を読んでいたのに、いつの間にか読まなくなって、インスタやPinterestしか見ていない。

見るのはいいことなのだけれど、インスタはあまり画像保存に適したメディアではないから、あ~~~かわいい~~と思って♥するだけで、流していってしまう。「どこがかわいいんだろう」と考えることもないし、雑誌のようなコーディネートのポイントの解説も読めない。

インスタはすごい情報量だけれど、だからこそ、そこで自分で考えつつまとめていく力が必要だった。

あきやさんもそれを推奨されている。

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そうだ、高校生の頃は、雑誌だと保管しきれないからノートを作ってまとめていた。そうだった。

あきやさんが書かれているように、自分の「好き」がどのようなものか取り出し、まとめてみる作業がないと、自分の「好き」がどんなものなのかはわからないはずだ。紙はそういう作業に適したメディアだ。

そろそろまた雑誌を読んで学ぶべきなのかもしれない、と思う。

 

実は私の大好きな先輩がずっと雑誌を買っている人だ。ずっと憧れの人なのだけれども「紙中心なのはやっぱりちょっと世代が上だからかな」と思ったりもしていた。

心の中で冨岡義勇さんが「愚か……!」と言ってくれている(私は『鬼滅の刃』の古参ファンなので、しょっちゅう一話の義勇さんを心に召喚している)。猛省したい。

とはいっても雑誌を読んで学ぼうにも、何を読めばいいのかからわからないので、またあきやさんに学ぶ。たくさん学ぶ日記になった。

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かばんと靴と学びの前のスモールステップ

いろいろみたけれど、要するにかばんと靴に手を付けるには、その前に熟考し学ぶ必要がある。

ここで問題になるのがるめんどくささだ。熟考するのも学ぶのもきっと楽しいけれど、たぶんめんどくさい。楽しいとめんどくさいは余裕で両立する。

めんどくささを克服しないことにはここから先に進めないだろう。ではどうするか。

 

一つには、なるべく小さいところで目に見える変化を感じて、意欲と行動を引き出していくのがよさそうな気がする。

またもう一つには、頭の中で混乱しているものを簡単そうなところから解きほぐすのもよさそうな気がする。

この2つを靴とバッグに至る前の行動の訓練と思考の訓練としてやっておきたい。

 

 

それでは具体的に、どんなところからはじめようか。

少し考えて、「色」に対する姿勢を変えることかな、と思った。

私はもう何年も前にパーソナルカラー診断のプロ診断でサマーという診断を受けている。そこでもらったアドバイスの全部に納得しているし、すごく重宝している。今みたいに、皮膚等の表面の色だけじゃなくてその人の内面を加味しましょうという流れが出てきていなかった頃にもらった結果だ*1

 

それによれば、私はサマーの中でも白に近い(明るい)色が得意なタイプのサマーで、「暗さ」に負けやすいタイプの人間である(今度受ける診断で変わったら面白いけれど……)。

少なくとも診断を受けたときはキャメルなどスプリングよりの色のほうが、同じブルベの冬の色よりも得意だった。ベストカラーはオフホワイト、ライトグレー、ベビーピンク、ソフトなブルー、ライトイエロー。

シンプルに言えば明るさと調和が得意で、暗さとコントラストと強い色に弱い。

 

 

ただ、その似合う色を着ていて、おしゃれかといわれるとどうだろう。

ベースにするカラーがおとなしい上にまとまり感が強く、重ねて本人が幼稚だから、よわよわよわMAXになる。雰囲気としては一年中梅雨の人というか、ペットはかたつむりです、というような趣。変ではないけれど、おしゃれでもない(ペットがかたつむりなのは変かもしれないけれど、見逃されたい)。

それが自分であること自体はそれでいい。かたつむりもなかなかかわいいし、雨に濡れるあじさいもいいものだ。でもいつもあじさいは雨に濡れてかたつむりを載せていないといけないだろうか。晴れた日のあじさいだってきっときれいだ。

ベースが梅雨な自分を受け入れつつ、そこを突破していこうとする力が私には必要だ、と思う。

 

まあこれまでも、一応、編地や作りに立体感やデザイン性があるものを選ぶだとか、顔に近い上半身は白とグレーベースを守りつつ、下半身はスプリングよりの色(コーラルやベージュ、キャメル、ブラウンなど)にするだとか、光沢感のある素材で白みを足しながら濃い色も着てみるだとか。

無理のない範囲で外すことを心がけてはきた。

 

でも何かが足りない。

それは何か、と言われたら、たぶん潔さだ。ここにポイントを作る、という意志だ。

たとえば全部で三色にまとめるというのはインテリアでもよく使われるテクニックだし、一応意識してきたつもりだった。でも私はそのポイントになる一色をどこに置くか、ということについて無頓着だった。

 

仮に、部屋の配色を考えるとして、白をベース(一番面積の大きい色)として、次をグレー、アクセントにイエローを入れるとする。そこで、床をグレー、壁紙と天井を白にするか、天井をグレー、壁と床を白にするか、全然効果が変わる。

イエローをラグとして低く広く取り入れるか、カーテンとして縦に長く取り入れるか、花瓶や絵画としてスポット的に取り入れるか、全然違う。

それはすぐにわかるのに、服においては全然考えてこなかった。ありあわせで二つないしは三つ色を揃えただけだ。

 

あきやさんのお手本を見ると、色をまとめるといっても、自分がやっていることとは全く違う!と痛感する。

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たぶん、そんな意志の弱さというよりも意志のなさが、サマーのよわ配色のよわよわ感に拍車をかけている。

 

 

弱い自分との付き合い方

しかしそもそも、なぜ「弱すぎる」「まとまりすぎている」と感じるのだろうか。「弱い」ということが必ず悪いわけではないだろう。時代の空気や価値観、景気に影響されている部分もあるだろうけれど、なぜ私は自分が弱いと不満を持つのか。

 

たぶんそれはよわよわであることが、ものを考えることが好きで、新しいことが好きで、変化や驚きや感動が好きな自分に合っていないからなのだろうと思う。

よく子供の頃から、中身はあついタイプだよねとか、本当は色々考えてるんだよねとか、実は頑固だよねとか生意気だよねとか言われてきた。実際、けっこうわんぱくな部分はあると思う。

 

けれどだいたい、「実は」「本当は」「中身は」がつく。外見には、そのわんぱくさは現れていないのだ。

自分で自分のことを言うのはどんなことであれ面映ゆく、言いにくいけれど、基本的に、私は優しそうだとか、おとなしいと言われやすいほうだ。まあ、実際そうだろうと思う。声が小さいし、運動神経が悪いし、よく自動ドアに存在を無視される。

また、それが本当の優しさかというと大いに疑問だけれど、人にきついことを言えない方だ。初めて仕事で後輩を叱ったときは、自分の方がつらすぎて、帰りに川に行って泣いた(不審者だった)。

そういう対外的に激弱いところと、中身のわんぱくさというか内弁慶さのバランスが取れないことに、フラストレーションがたまっていたのだろう。だから自分の弱さを否定的に受け取るのだろう、と思う。

 

対外的によわよわであることにはいい面も悪い面もあるだろうし、中身がわんぱくであることにもいい面と悪い面がある。単純にどちらかを殺してどちらかに統一すればいいという問題ではない。

たぶん両者のバランスを取るということは、それぞれのいい面と悪い面と向き合っていくということだ。

 

今、よわよわな面ばかりが外見に反映されている私は、そのバランス取りができていないだろう。

たぶんよわよわであることの良さを引き出せていない。一方中身のわんぱくさの方は人目にさらされていないから、手つかずの野生の状態にある。むしろ対外的なよわよわを隠れ蓑にして、悪い面ばかり伸ばしているような気もする。この記事を読んで、これだ、まさにこれだ……と思う。

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わんぱくな私を引きずり出す

さて今、わんぱくな私の中身は、人様の目がないのをいいことに自分の中で好き放題に暴れている。

外に居場所がないから、よけいに不満をためて暴れている。ならば、このわんぱくな私を外に出してやるしかない。しかしかれは、一体どういう形で外に出てきたいのだろう。

 

 

昔は、それはヒールという形であらわれていた気がする。

電車の中で本を読むのが好きだったのだけれど、その本をきっかけに話しかけられたりすることが何度かあった。だから、好きな本を電車で読む時には、その作品の読者として恥ずかしくない姿かたちでいることを心がけていた。「うわ~あの作品の読者ってこんなやつなんだ」と思われたくなかった。

 

それがエスカレートしていった結果、電車の中では座らず、つり革を持たず、ヒールで一時間頑張って立って文庫本を読むという武者修行のような読書スタイルが確立した(しょっちゅう足から血が出た)。

歩くときも、モデルさんのウォーキングが好きで頑張って真似してよく転んでいた。ヒールの小さな一点になるべく体重を置くことで、自分が持てる限りの圧力を地表にかけることに、「私ここに生きてる……!」と謎の喜びを感じていた。

 

 

でもその後、時代はもうそういう空気ではなくなった。私も色々あって、そんな強い姿勢は保っていられなくなったし、もう前ほど電車に乗るわけでもない。昔の強気さも今見れば、ちょっと方向性がおかしい(なぜ地表に圧力をかけたがっていたんだ?)。

 

では今の自分らしい、今の自分がほしいと思う強さは何だろうか、と思うと、「静かさ」だと思った。あるいは「圧」だ。

静かな海みたいな、芯のある穏やかさと、かすかな凄みがほしい。なまぬるい風と冷たい水がぶつかりあう時に生まれるような、不安定な調和がほしい。

明るい曇り空のような、晴れと雨の境界線上で変化し続けているような雰囲気。硬さと軽さもほしい。

 

可視化すると、

 
 
 
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 (理想~~)

(中国の俳優のGuan XiaoTongさんです)

あるいは、

 

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ウォルター・デ・マリア《タイム/タイムレス/ノー・タイム》地中美術館

 

こうだ!(無生物~)

 

 

さて、これを私のリアルに落とし込んでいかねばならない。なかなか大変そうだ。ウォルター・デ・マリアっぽいファッションってどんなだろう。

ただ、「穏やかさ」「海」というのは、現状の自分の外見から引き出しやすい要素だろうと思う。「海」「明るい曇り空」からイメージされる色みは、自分が得意な色にわりとあっている。

 

でも逆に、だからこそ難しいかもしれない。色合いやシルエットが大きく変わるわけではないから、今の万年梅雨のような雰囲気を明るい海の曇り空に持っていくために必要なのはニュアンスの調整だ。

あと残っている要素は「静か」「芯」「凄み」「冷たい」「硬い」「軽い」「不安定な調和」「境界線上」「変化」……

最後の三つは、モチーフを重ねていった末に生まれるものだろうから、ちょっとおいておく。前のいくつかはどうやって形にしたらいいだろう。

 

 

そう考えて、一番最初は、服以外のところに落とし込んでいくのがやりやすいだろうな、と思った。静かで芯があって、凄みがあって冷たいものといえば、いい素材がある。金属だ。バッグや靴に取り入れると重たくなるし、服では難易度がものすごいから、アクセサリーがよいだろう。

たぶんマットだと、私と相性がいい。黄色みの強い金属は苦手だけど、マットならばわりと素材も選ばないだろう。海のものであり、かつPC的に私の得意なパールとも相性がいい。

 

 

つまり……これだ!

www.artidaoud.com

 

 

SOLD OUT……!!

こういうのはやってるもんね…… 

 

 

静かな海を見つめる

だがこのくらいで負けていてはいけない。

「穏やかな海」「明るい曇り空」「静か」「芯」「凄み」「冷たい」「硬い」「軽い」「不安定な調和」「境界線上」「変化」……これらを表現する方法は、まだまだ他にもある。

というよりたぶん、これらの目標を軸として万事組み立てていくべきなのであり、その上に細かなモチーフやアイテムがあるべきなのだ。一つ一つにとらわれていてはいけない。

 

 

まず、「芯」を作るには、直線的で、垂直に降りていくイメージがあるとよいだろうと思う。特に上半身はコンパクトに、かつ付かず離れずのラインを作れるとよさそうだ。

「凄み」は……姿勢を正すところからだろうか。身長がないから、治安悪い感じを装っても凄みは出せない。アクセサリーのような小さいモチーフにエッジをきかせていくことはできるだろうけれど、全体の印象を左右するのはやはり全身のたたずまい、いずまいの気がする。

ということはつまり、姿勢を正したときにはえる服がいい。あとは素直に怖いモチーフ。虎とか好きだ。

 

「硬さ」、あるいは「堅さ」は、たぶん意識しなくても私が選ぶものはだいたいそうなるだろう。

体に服を添わせることで形をつくるのではなく、服の方に自力でスタイルを維持してもらう必要がある体型なので(訳:側弯があるため、体に沿うことできれいなラインができるようなデザインや生地だと服がゆがむので)、好むデザインも生地も、だいたいどこか硬さをもっている。

 

一方「軽さ」、はけっこう難しい。なんてったって芭蕉大先生が一生をかけてたどり着いた境地である。

はっきりと軽いものを使ってもいいけれど、単純に安っぽくなりそうな気がする。安っぽさはたぶん、私が目指す方向とは合わない。

 

そもそもの話、凄みだとか芯だとか堅さと「軽さ」自体が合っていない。それなのに私が「軽さ」をあげたということは、そのアンバランス自体が「不安定な調和」「境界線上」を求める心の現れなのだろう。

凄まじさをもたせつつも、ちょっと抜きたいわけだ。たとえば西行の「古畑のそばの立つ木に居る鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮れ」みたいな。この「すごき」は「すさまじい」というような意味で、殺風景だとか、ひどくさびしいとか、不気味というような文脈で使われることが多いのだけれど、この歌ではモチーフの組み合わせからして、不気味さはあまりない。枯れ木の白さのような明るさがある、などと言われる。

そういう、ガチガチにならない感じがほしいらしい。

 

それならば、「軽さ」についても、本気で軽いというよりは、重いものを重く見せないという使い方がいいのだろうな、と思う。

そこで思い至ったのが、黒だ。

パーソナルカラーでいえば、私が最悪に似合わない色である。

だがそれを思い切り細く細く使ってみたらどうだろう。たぶん、軽さや「境界線上」の雰囲気が出そうな気がする。

 

黒という色については

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こちらの記事を拝見したり、マン・レイのうつしたココ・シャネルの有名な写真だとか、あるいはイブ・サンローランの有名な、背中のレースがとんでもないドレスだとかを思って(どの美術館で見たのだったか思い出せないのだけど)、いいなあと思っていた。

だがどうにも似合わないし、自分が好む他の要素とも組み合わせにくいので、どうしたものかと思っていた。

 

 

しかし思い返せば、私はPC診断を受ける前から細い黒の線というものを好んできたのだ。インテリアにおいてもそうだし、アクセサリーにおいてもそうだ。高校生の頃、毎日ZUCCAの黒いコードのブレスレットをつけていた。

そんなわけで、ブレスレットに取り入れたらどんなになるのかは想像がつく。今取り入れるなら指輪か、ネックレスがいい。タトゥーシールも一応。

ネックレスは首がぞわぞわするので苦手であまりつけないのだけれど……あるいは腕時計という手もある。

 

現在私は時計をなくしてしまって、ずっと時計なしで暮らしている。大変よるべない。買いたい。でもなかなかこれというものに出会えずにいた。

黒くて、細い線を感じさせてくれる時計は、きっとつけていく状況も選ばないし、よさそうだ。

 

 

 

表現と自足

だがしかし、黒のストライプのシャツなどにはまるで心が動かない。おそらく、ただ単に黒い線があればよいというのではなくて、どうもその線を体に巻き付けたいようだ。

 

一歩間違うと気持ちがわるいけれど、そもそもの話、私は自分の体を締め付けるのが好きだ。コルセットは使ったことがないけれど、トレンチコートが大好きで、トレンチコートのボタンをしめたりはずしたり、ベルトを巻いたり縛ったりするのが好きだ。

トレンチコートも、明るい曇り空の不穏な海(要約した)にきっとよく似合う。穏やかな砂浜ではなくて、岩場にざばっと波がよせているような情景だ。素直に合うわけではないからこそ、なんだか物騒な趣が出て合う。

 

たぶん、トレンチコートをぴっしり着たときの身体感覚が、自分の思う明るい曇り空の不穏な海に合うのだと思う。それは他人の目から見てわかるものではないけれど、自分ではとても満足する。 

 

 

そう考えてみれば、「明るい曇り空の不穏な海」を実現していくには、二つの方向性がある。一つは、他の人が私をみたときに、私がめざしたものが何となくでもいいから想像できるような装い。つまり表現である。

もう一つは、他の人には伝わらないけれど、私は、自分がその姿で明るい曇り空の不穏な海に立っているところを想像できるような装い。こちらは完全に自己満足である。

 

たぶんこの両方、あるいはどちらかを満たせるものを選んでいけば、私は楽しく暮らせるのではないかという気がする。日によってどちらかに傾くときもあるだろうけれど、総じて調和していくのではないかと思う。

ここまで考えてようやくはっとした。あきやさんがnoteにかかれていた「外見」と「内面」の話というのは、もしかして、こういうことと関わってくるんだろうか……!

 

 

 

明るい曇り空の不穏な海を組み上げる

こんなことばかり書いているとどんどん実際のファッションから遊離しているようだけれども、頭の中は、案外そうでもない。

今考えているのは、まずは靴下やネイル、ハンカチなどの小物を統一的に組み合わせられるように取捨選択していこうか、ということだ。

 

たぶん今までの私だったら、「明るい曇り空の不穏な海」というキーワードを得た時点で、そこに立ってそうな人を探しに行き、そしてその人の服を真似して買っていた。あるいは安直に貝殻モチーフの小物なんかを買っていた。

でもそれでは、自分でコーディネートを組むことができない。理解を伴わない真似っこには学びがないから再現性がないし、貝殻は貝殻で、貝殻導入したからここは海!以上!で終わってしまう。

 

今の私は違う。

今私ははじめて、自分のもっている洋服等のことをコレクションの一部として見ている。ここでいうコレクションとは、美術館の収蔵品、という意味だ。

 

 

私はDIC川村記念美術館が大好きなのだけれど、あそこの何がよいかといったら、自前のコレクションで勝負し続けられる美術館だ、ということだ。

この美術館は数年前に日本美術をやめて現代美術に特化した。したがって当然、国宝や重美がごろごろしているわけではなく、作品の知名度や季節の催しでつれるわけではない。

けれども、自前の収蔵品をいかした魅力的な展示を何度も組んでいる。一つ一つの作品はおなじみのものでも、組み替えることで、また全然違う姿になる。しかし「この作品はこういう路線で解釈してね!」と方向を制限するようなキュレーションではないから、行くたびに新鮮な驚きをもらって帰る。

そういうコレクションとキュレーションのちからのある美術館だと素人ながらに勝手に思っていて、ずっとファンでいる。

 

なぜ突然美術館の話になってしまうのか。こういうところがずっと人に呆れられてきたところだけれど、でもファッションも通う所があるのではないかと思う。

きっと力のあるアイテムを手元におけば、同じように、いろんなキュレーション、つまりコーディネートに答えてくれると思うのだ。

 

そうしたら「明るい曇り空の不穏な海」のイメージも、そのコーディネート次第で全然違ったものになるかもしれない。やってみるまでは想像すらできなかった明るい曇り空の不穏な海に出会えるかもしれない。

日によって変わっていくコーディネートは、きっと私をさきほどの「不安定な調和」「境界線上」「変化」といった要素に出会わせてくれるだろう。

 

 

何だろう、俄然楽しくなってきた。 

実はあきやさんの記事の中で、「今までこういう実践を怠ってきたなあ……でもこれからもめんどくささが勝ちそう……」と思ったのがこちらだった。

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しかし「美術館のコレクション」という視点を得られた今なら、たぶん楽しくできそうだ。

 

 

さらに高度なものとしては、こちら。

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最初は難しそう……!と思ったけれど、これも「自分が美術館のキュレーターだったなら」という視点を持ってきたら、たぶん楽しくできる。

私という美術館のコレクションから、どんな意図で何を組み上げるか、それをどう鑑賞者に示すか。なるべくわかりやすく、シンプルで、本質的な表現になるように絶対じっくり考える。それでも見る人を変に驚かせたり、場や時にそぐわなかったりしてしまうような形にならないように、何度も練り直す。

 

そう言いながらまだ取り掛かっていないのがいけないところではあるけれど、でもとりあえず、さきの目標「めんどくささ」の克服の最初の一歩は、踏み出せたような気がする。

そして発端のアンケートにも、ちゃんと答えられそうな気がする。もちろん「明るい曇り空の不穏な海になりたい」というような言い方ではなくて(私がアナリストさんだったらそんな客怖すぎて泣いちゃう)、ちゃんと自分を他者に開いてゆける言葉として書けそうだ。

 

そしてその次はそれからパーフェクトコーデとスタバと靴とバッグと腕時計が待っている。こうやって順序が見えて、自分が目指すものの体系が見えてくると、同じ調べものや考え事でも、断然楽しい。

暗中模索しているような状態から、地図ができた。うまくいかないこともあるだろうけれど、このさきに進むのが楽しみでしかたない。

*1:個人的には、PCや骨格、顔タイプは内面など無視しさった客観的な結果をもらった上で、自分で自分自身の個性に合わせていくほうがいい気がしている。ファッションに人柄や内面を加味する必要があるのは当然だけれど、それは自分で作っていくものだし、場所や相手次第で変わるものでもあるだろうから、アナリストさんに教えてもらうものではないんじゃないか、と思う。